戸隠地質化石博物館の日記

博物館周辺での日々のできごとを、地質、植物、動物などの各担当者が書いていく日記です。

歩いてみないとわからない

昨夜、雪雲が流れ込み心配したのですが

今朝起きてみれば、うっすら白くなった程度。

昼前には陽ざしですっかり解けて、

家族連れのお客さまでにぎわう土曜日となりました^^

 

さて先日、長野駅から善光寺までの道を仲間と歩きました。

しかもガイド付きです!

 

戸隠に住むようになって早15年。

しかし善光寺に行ったことは数えるほどしかなく、

これを機会に勉強させてもらおうと意気込んででかけました。

 

ガイドさんの名調子で(当館の秘書さんに通じるものが^^;)、

2時間半は楽しくあっという間に過ぎました。

発見! 目からうろこ!! トリビア!!!

の連続で、歴史ある街のよさを再確認でした。

Yさん、またぜひご案内をお願いします!

 

個人的には駅にほど近い西光寺、

通称かるかや山に行けたことがよかったです。

 

大蛇と小蛇を供養する大蛇塚の伝説

 

当館にも資料が展示されている日本初の石油会社

その社員のお墓もありました。

 

しかし、私がこのかるかや山に行きたかった理由は

守田治兵衛の玉垣がある、と聞いていたからです。

 

お寺の入口の一番目立つところにあり、すぐにわかりました!

 

このかたは、江戸初期から続く、上野の薬店の店主で、

幕末にコレラの特効薬「宝丹」を売り出し、

明治にベストセラーとなって財をなした有名人です。

宣伝にもたけていて、新聞広告の元祖と言われていたり、

古い雑誌ではこんな記事を見かけることも・・・

 

私がその名を知ったのは、

彼が明治15年に、戸隠連峰の最高峰、高妻山に奥さんと登り、

山小屋を寄進したことが伝わっているからです。

「宝丹小屋」と呼ばれていたそうです。

 

この玉垣の、ちょっと右に傾いた独特の字体が

「宝丹文字」と呼ばれる、彼の筆によるものだとわかります。

かるかや山の玉垣は他の寄進者のお名前も宝丹文字で書かれていました。

 

今日調べていたら、善光寺近くの旧脇本陣

五明館の看板も彼が書いたものだそうです。

(↑木の葉が芽吹く前に、いい写真を撮りに再訪しなくては!)

 

心神深いかただったそうなので、

長野には善光寺詣でに来られ寄進されたのでしょうか?

それとも、もっと深いご縁があったのか?

わざわざ高妻山に登ったのはなぜ?

 

色々と発見があって楽しい散策でした。

外国人のかたも大勢歩いてらっしゃいました。

やはり歩かなくれてはわからない!

またチャレンジしたいと思います^^