朝はぽつぽつと雨が
昼には晴れ間が見えたかと思うと
すぐに曇り・・・
なんとも静かな一日です
相変わらず 標本整理を続けております
今回はライチョウです
館内には現在 6羽 が います
(が 拾ってこなかった子もいるので 今更後悔・・・)
一羽目
この子は常設展示しているもので第5展示室にいます
市内の標本作成会社製で
おそらく明治45年5月に捕獲作成されたはく製と見られます
明治43年に捕獲が禁止された後なので どうやって捕まえたかな?
ちなみにこの会社については すでに 紹介済み なので割愛
2羽目は 1F 廊下の棚の上
白馬で捕獲された 冬毛(冬羽)のライチョウ
ただ いつのものかはわかりません
まずは ライテウなので戦後直後よりは前だろうってところ
学名が Tetrao mutus で Mortinが1781年につけているもので
今の Lagopus muta japonica と違うので
その辺を追えれば少しは絞れるかとおもったら
うちのはく製で学名記載があるものは
みな Tetrao mutus だったので追えそうもない・・・残念
あと4羽は 2Fの棚の上にいて
3羽目
白馬で捕獲されたライチョウ
足ふわふわで 若干茶色の羽根が背中にあるので 春毛かな?
読めないけど 大正のラベルなので そのころのものと思われる
4羽目
やはり 採集時期は不明
作製したのは 教育品製造合資会社
5羽目
白馬で捕獲された夏羽?のライチョウ
明治41年5月のもののようです
この時期5月の捕獲は禁止されているので
入手方法はやはり謎
6羽目
足のふわふわが微妙 秋毛? の ライチョウのようです
採集地は 信濃 と書かれているように見えました
採取時期は読めません><
ただ 教育品製造合名会社製のようで
この会社を調べたところ
4羽目で出てきた会社と同じ会社で
合名会社 は 合資会社 になる前の名前なので
時代は限られることがわかりました
これによると
教育品製造合資会社は
明治9年に創業し
明治26年6月に合名会社に
すると
6羽目は 1893(明治26)~1906(M39)年の間に
明治28年以降 繁殖期は捕獲禁止になっているので
そこを避けた捕獲?
4羽目は1906(明治39)年以降ということに
捕獲が禁止される明治43年より前までの捕獲とすると
ずいぶん絞られるけど・・・
まぁまぁ不明
横道にそれますが
会社自体のその後もなかなか追えず
明治40年ころの地図には
掲載されていたのでありそうですが その後はわかりませんでした
この後は 関東大震災(19230901)でほぼ全部焼けている地域なので
その辺までか?
あっても 東京大空襲(19450310)までってところかな?
明治には会社の登記はされているけど
現在 法人番号が勝手に付与されてはいないので
後者よりは前者な気はします・・・
明治のこのころ教育への熱はすごくて
たくさんの標本や教材の会社があったようです
館に残る資料にも様々な社名のものがあるので
その辺はまたいずれ ご紹介
ただ
同じ時代の創業で 現在 法人番号がついているところもあるので
なんともいえませんが^^;
ちなみに現在の地図では確認できませんでした
さらに 横道にそれます が
教育品製造会社の創業者の屋井琢という人を検索していたら
甥に 屋井先造 という人がいて
日本の乾電池の発明者で
乾電池王とよばれたすごい人でした
この先造も教育品製造合資会社に一時期勤めていたようで
13歳年上の屋井琢は先造もあこがれる叔父だったとか
先造は1864年にうまれ
13歳で時計屋で丁稚奉公し 技術を学びました
その後 知人に学が足りないといわれ
大学受験を決意 1回目は不合格
2度目の大学受験の日に寝坊し
自分の時計は時間前だったので入校を願うも
5分の遅刻だといわれ 会場に入れてもらえず失敗
(その後は年齢制限で受けられず)
彼の時計はゼンマイ式で
正確な時刻を維持できないからだと
1885(明治18)年 連続電池時計を開発した
湿式電池では液漏れするということで
明治20年 乾電池を発明したものの
お金が足りず特許申請ができず
公的には第1発明者をとられていたり
先造の電池が採用され そこで注目され
その後 軍御用達となった電池は
寒くても凍らずに通信ができたので
明治37年に勃発した
日露戦争を勝利に導いたとかいないとか・・・
なかなか逸話の多い人で
どこかの朝のドラマになりそうな人でした
1885(明治18)年 会社を設立(1950年廃業)
その場所はおじさんの会社のあった
浅草七軒町だったみたい
ただその辺細かいところはわかりませんでした
なんにせよ
標本自体も面白いけど
その背景にある物語もおもしろい
そのせい?おかげで?
標本整理は進まないけど^^;
標本整理は面白いです^^
なので たぶん まだまだ続く