顕微鏡の寄贈者「野澤彌重郎」氏について、
学校に資料が残っていました。
職員の履歴書綴りです。
彼は元治元年(1864)稲荷山に生まれ、長野県師範学校卒業後、教師になりました。
明治36年(1903)農工補修学校の校長も兼務することになりました。
その後、大正のはじめまで、18年間鬼無里の学校に奉職しました。
保科五無斎とほぼ同時期に活躍した人物のようです。
この顕微鏡は、農工補修学校校長に任じられた明治36年9月28日に寄贈されました。
大正時代につくられた国産第1号の顕微鏡に、形がとてもよく似ています。
国産顕微鏡は発売当時125円だったとのこと…
現代の価格では125万円ぐらいとの記述もありました。
それ以前の輸入の顕微鏡 いったいいくらの価格だったのでしょうか。
当時、コッホや北里柴三郎らが、顕微鏡によって病原菌を発見した時代です。
野澤校長は、これからは顕微鏡を使った科学が人類の進歩につながると
考えたのではないでしょうか。
そのため、自己資金で顕微鏡を買い求め、学校に寄贈したのでしょう。
この寄付により、彼は木杯をもらった、と記録に残っています。
明治40年代には、「高村」に改姓をしたようです。
彼は、日清戦争や信里小学校の建設費も献納した、とあります。
篤志家だったのでしょう。
このような先生が、地域のために献身的な努力をしたことが伺えます。
明治時代の輸入の顕微鏡自体も貴重なものですし、
地域のことを考え、熱い思いのつまったものでした…。
後世に、ぜひ伝えていきたいと思います。