戸隠地質化石博物館の日記

博物館周辺での日々のできごとを、地質、植物、動物などの各担当者が書いていく日記です。

1枚の絵ハガキから…

絵葉書コレクターの友人が以前に入手してくれた、1枚の絵ハガキがあります。

 

タイトルは「裾花川の景」 (朝陽館版)とあります。

 

朝陽館は「ちょうようかん」と読み、

市内善光寺参道にある老舗の本屋さんのようです。

荻原書店として、現在も続いているとのこと…

 

明治元年創業で、以前は本や絵葉書も発行していたのでしょう。

奇しくも、新しい市長と同じ字…

明治元年といえば、保科五無斎さんの生まれ年でもあります…

 

そこには、裾花川の河原の写真が印刷されています。

 

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えっ?なにこれ…

 

河原が一面石ころだらけです。

 

単なる風景写真というよりは、土石流が流れたあとではないか、との予感…

 

裾花ダムができる以前の画像です。

 

詳しい撮影場所は調査中ですが、一体、いつのものなのか?

 

本当に裾花川の写真なのか…?????

 

ぐるぐるといろんな思いがまわります。

 

左側の道は、現在の国道406号線か… 

 

そうすると左奥の集落は「小鍋」になります

 

善光寺温泉のちょっと上流、湯ノ瀬ダム付近の風景だろうと予測しています。

 

 

裾花川の河原が、巨礫で埋め立てられています。

 

さてさて、?????

 

 

まず、絵葉書の裏側?を見ます。

(宛名や文字を書く面 通信面というのだそうです)

 

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仕切りの線が3分の1ぐらいのところに引かれています。

 

1910(明治40)年4月~1918(大正8)年3月までに

この絵葉書は印刷されたことになります。

 

その間にある、裾花川の災害について記録を当たってみると、

1909(明治39)年7月31日の鉄砲水災害の可能性がでてきました…

 

この災害は、荒倉山周辺に集中豪雨が降った時に発生しました。

当時の新聞記事からは、妻科付近で約2.4mも水位が上がり、

一部では、浸水したようです。

 

電話などの通信手段もなく、死亡した人々が川に流されてきたことで

上流部で大災害があったらしい、と気づいたとのこと…

 

記録によれば、14名の死者があったとされます。

 

可能性としては、その直後の撮影だと思われますが、

なぜ、この災害後の風景を絵葉書にしたのか、謎が残ります。

本当に裾花川なのかも含め、

もっと詳しい調査が必要な絵葉書でした…

 

今日は、全くおちがなく、すみませんです。