戸隠地質化石博物館の日記

博物館周辺での日々のできごとを、地質、植物、動物などの各担当者が書いていく日記です。

1927年(昭和2年)の裾花峡へgo!

今朝も柴犬館長と視察…

 

ソバはどんどん成長… 大きくなってきました…

 

 

月見草も咲き始めています…

 

 

こんなものも落ちていました、

 

🐕「なぜじゃ…」

 

元バドミントン選手(高校時代、やっていたのです…)だった秘書としては

ちょっとショック!

 

 

閑話休題

 

今から95年前の裾花峡の画像を紹介しましょう!

 

昭和2年 戸隠連峰高妻山を源流とする裾花川、

その渓谷美が日本百景に選ばれました。

 

これを選んだのは、大阪毎日新聞社東京日日新聞社(現:毎日新聞社

鉄道省の後援の下でのもの…

 

保科五無斎の親友だった、丸山弁三郎長野市長も積極的にロビー活動を行い、

裾花峡が日本百景に選ばれました。

 

その辺りの経過は「柵村誌」に詳しく記載があります…

やるなぁ、柵村誌編集委員会… 頭が下がります…

 

大正時代の好景気を受け、観光産業が発展していく時代です。

 

今でいえば、全国観光キャンペーンといったところ…

 

当時、その宣伝活動を行った、

北信保勝会発行の絵はがきやガイド本が博物館にあります。

 

 

 

今は、裾花ダムができたりして、

変わってしまった風景を紹介していきましょう。

 

まず、鳥観図を

 

 

残念ながら鳥観図の大家 吉田初三郎ではありませんでした…

 

しかし、長野市から柵、そして鬼無里、戸隠高妻山を一気に紹介…

 

 

 

長野県庁裏の通称「白岩」、当時としては珍しい彩色絵はがきです。

 

 

ちょっと水の色が違うなぁ???

 

 

龍潜洞 こんな洞窟もあったようです。

(現在は水没… 裸で泳いでいるこども、その中でも直立不動の子が気になります)

 

 

傘岩  凝灰角礫岩の硬い部分だけが残りました…

(これも水没したようです…)

 

 

藤岩 ちょうどダムサイトのあたりでしょうか?

 

深い谷に、硬い凝灰角礫岩が露出することでできた渓谷美…

 

新緑・紅葉の頃は、美しい風景だったに違いありません。

 

その分、道も険しく、この川沿いに道が作られたのは江戸時代末のこと…

 

 

人々の移動は、松代への最短距離となる陣場平山系の峠道を利用していました。

 

地質に逆らわない中世や江戸時代から、

積極的に道を切り開く時代にかわったのでしょう…

 

 

🐕「フーン、それは、ちょっと面白いじゃないか…」

 

今日も、おあとがよろしいようで…